Livre para Viver

日本語とポルトガル語とその周辺

パウロ・フレイレの教育観を勉強しようと思った1冊

電車の移動など、少ないすき間時間に、少しずつ読んでいる本。ようやく3分の2ほどを読み終えました。

日本語教育学を学ぶ人のために

日本語教育学を学ぶ人のために

 

 とかく、日本語教育というと教授法に偏りがちですが、この本のいいところは、教授法は、他の本にまかせて、「教育学」というところに重点をおいているところだと思います。

特に「第II部 学習はどのように起こるのか」では、「第1章 認知心理学的視点」、「第2章 ヒューマニスティック・サイコロジーの視点」「第3章 フレイレ的教育学の視点」「第4章 状況的学習論の視点」「第5章 普遍文法の視点」「第6章 第二言語習得研究の歴史」と題した各章で、様々な視点から日本語教育を見たときのことが概説されています。ノウハウではなく、読者それぞれが、自分の「日本語教育観」に新しい洞察を得られる章立てとなっています。

本のタイトルは、『日本語教育学を学ぶ人のために』と、いかにも大学の教科書として使われそうなものになっていますが、日本語教育の現場で教壇に立っている人が、改めて振り返るのに、役立つ本ではないかと思います。

フレイレ的教育観

その中で、「第3章 フレイレ的教育学の視点」が印象に残りました。

パウロフレイレといえば、ブラジルの教育学者で、"Pedagogia do Oprimido(被抑圧者の教育学)"*1で世界中の注目を集めていることは、当然のことながら知っていました。

被抑圧者の教育学―新訳

被抑圧者の教育学―新訳

 

原語の本の電子書籍版も購入し、すでに手元にある状態です。

しかしながら、読む時間も気力もなく、なかなか読めずにいました。

この章では、フレイレの課題提起型教育について以下のように紹介しています。

フレイレは、教師と生徒(あるいは教育者と被教育者)の垂直な上下関係の中で、教師が一方的に知識を注入し、生徒は求められたときにそのまま提示するといった教育を、銀行預金の出し入れに似ていることから「銀行型教育」(Banking Education)と呼び、生徒の客体化と非人間化をすすめるものとして否定した。これに対して、教師と生徒が水平的な関係の中で、課題を共有化し、その課題をめぐる対話を深め、新たな知見を獲得し、現実変革の実践をともにすすめていくという「課題提起型」の教育が本来の教育のありかたであると主張した。(p.94)

教師が抑圧者であり、生徒が被抑圧者であるという関係になっており、その関係から解放され、また、お互いが対等の立場で、課題解決をしていく、という教育のありかたを提唱しているのだと理解しています。

自分の教育のありかた、また、自分が教えている組織の、学生とのありかたについて、考えさせられます。

自分が教室で授業をするときは、どうしても、学生に知識を教えるという立場になりがちです。特に、初級から中級にかけての日本語教育の現場では、知識は、圧倒的に教師に多く、知識を注入し、学生がその知識をもって運用できるようにする、ということに意識が向きます。

そうすると、どうしても教師と学生との間で、抑圧・被抑圧の関係が出来上がってきます。

フレイレ的教育観を知ることで、自分の教育のありかたを見直すきっかけになるのではないかと思っています。

興味の方向が変わってきた

日本語教育の現場に復帰してから、それまで、教師や児童・生徒・学生が使う「ことば」に興味があったのが、教育観だとか、教育のあり方に興味が向くようになってきました。

チームティーチングをする教育機関では、どうしても、その組織の意向に合わせる必要がでてきます。

しかし、教育のありかたとして、疑問を感じないことがないわけではありません。

ただ組織の意向を聞くだけでなく、様々な教育観を知り、学生とともに成長し、自分なりの教育のありかたを模索していく必要があるのかな、と感じています。

いつか、専任職につくことがあったら、当然考えて行かなければいけないことだと思います。それまでの準備期間として、非常勤講師として、様々な大学にお邪魔している間に考えていきたいと思います。

*1:Freire, P. (1974) Pedagogia do Oprimido, Rio de Janeiro: Paz e Terra [フレイレ, P (1979) 『被抑圧者の教育学』, 小沢有作他訳, 亜紀書房]