「民族性・国民性」を疑うこと
寺沢先生のブログをみていて、触発されたので、いつもとは違う切り口の記事を書いてみようかなと思いました。
寺沢さんは、次の本の著者です。私も購入させていただき、読んでいるところです。
とても精緻な議論をされていて、のめりこむように読んでいる日もあったり、なかったり。
「なんで英語やるの?」の戦後史 ??《国民教育》としての英語、その伝統の成立過程
- 作者: 寺沢拓敬
- 出版社/メーカー: 研究社
- 発売日: 2014/02/22
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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民族性・国民性
大学院に入ったら「日本人の民族性」の話はとりあえず疑うべき - こにしき(言葉、日本社会、教育)
英語教育・外国語教育系の学会において、「日本人はこういう民族だから、教育政策はこうすべき」とか「国民性がこうだからこういう指導法がよい」といった発言が、しばしば飛び出します。体感では、研究発表よりもシンポジウムが多い気がします。
日本語教育系の学会に行ったりすると、やはり「日本人性・国民性」の話しや、「○○人らしさ」というのを質疑応答できくことがあります。
学部時代の語学の先生(ポルトガル語の先生とか)の口からも「ブラジル人は〜だから」という言葉を聞いたことがあります。
まぁ、言うのは勝手だからいいんですけど、ヘタすると、学部の学生だと、「ああ、ブラジル人ってのはみんなそうなんだな」って思ってしまうことがあると思うんです。
寺沢さんは次のように続けます。
英語教育・外国語教育の専門家は、たとえ研究者であっても、ほとんどが日本研究や地域比較研究、人類学や社会学の専門家ではありません。外国語教育の学会で「日本人性/国民性」という言葉がでたら、話半分に、いや1割程度に聞いておいたほうがよいと思います。
これにも、同感です。
私は、ポルトガル語を教える講師として大学に出講していますが、「国民性」の話しは、出さないようにしています。
ステレオタイプを押しつけることの危険性を感じているし、ブラジル人と、一括りに出来る話ではないことを身をもって体感しているからです。
さて、ブラジル人であれば、「楽観的」「社交的」といったステレオタイプが付けられることもあります。
多文化共生、経済の力に 浜松国際交流協がセミナー | 静岡新聞
村永副会頭は日本人は悲観的でブラジル人は楽観的と気質の違いを指摘し、その例として「日本語の『検討します』はほとんどノーの意味になるが、ポルトガル語に訳すとイエスにとらえられる」と説明した。>
日本人は悲観的、ブラジル人は楽観的、というのを見て、素直に受け入れられる人がどれほどいるでしょうか。
私は日本人ですが、比較的楽観的だと思いますし、悲観的なブラジル人の知り合いはたくさんいます。(そもそも楽観的・悲観的の定義が分からないし・・・)
また、その例に挙げられていることは、日本人が悲観的であること、ブラジル人が楽観的であることの説明に全くなっていません。もし、この例が正しいとしても、「検討します」の言外の意味がその言語社会で異なっていることの説明にしかなっていません。(でも、このような話しは好まれるんでしょうなぁ)
また、「日本人は恥ずかしがり屋だから」言説・・・。
日本人上司は話を聞いてくれない? | トレーナーコラム | 人材育成・研修のリクルートマネジメントソリューションズ(強調は筆者)
ところが、いざ研修を始めてみると、日本人と近いシャイな一面を持っていることが見えてきた。受講者は全体的に控え目で、自主的に発言するのは会場の中でも1割程度。全体に向けて意見を表明するとなると、恥ずかしさのためか、かなり抵抗を感じている人もいるようだった。
日本人がシャイ、外国人はシャイではないという意識が読み取れる文章ですが、だれが日本人がシャイだなんて決めたんでしょうか。
日本人だって、アウトゴーイングな人は何人も知り合いにいますし、シャイでないと思われているだろうブラジル人(テレビなんかを見ていると感じます)の日本語学習者の友人から、「恥ずかしくて日本語でなんか話せない」と言われることがあります。
寺沢さんは、「ちょっと考えてもらえばすぐに反例が見つかる話」とおっしゃっていますが、まさに、上述のような反例は私の身近だけを見てもいくらでも見つかります。
大学の授業でも
私が、神田外語大学で担当している講義は、通訳法なのですが、コースの最初は、会話データなどの音声データを観察する。というようなことをやっています。
そして、授業の内容を踏まえて、いくつかの質問に答えて貰うわけです。
たとえば、「このトランスクリプトにみられる会話的な特徴はなんですか」という質問を課題として出します。
そうすると、何人かは「ブラジル人は、良くしゃべるから、次々とオーバーラップを起こしたり、割り込んだりする。」というようなことを書きます。
気をつけるべきは
ですから、説得力をもって「○○人はこういう人だ」といえる知見も持っていないし、研究結果があることも知りません。
だからこそ、「国民性」の議論を、大学の教員(または日本語学校・語学学校の講師)として授業で扱うことはとても危険だと考えています。(自分が学部生の時のことを考えると、先生のこと言うことを真に受けていることが結構ありました。)
実は、以前、母校であり非常勤先でもある広報誌に、取材を受け掲載されたことがあります。
そのときは、ライターの方には「学生には、ブラジル人にもいろいろな人がいるし、いちがいにブラジル人はこうだ、とは言えない。また、ブラジルにも、いろいろな地域があり、様々な人が住んでおり、一様ではないということを伝えたいと思っている。」とお伝えしたところ、そこはすっ飛ばされましたw (一番書いて欲しかったのに)
あるとき、ある大学の先生に「平成生まれと昭和生まれにはれっきとした違いがある!学生の質が違う!」(近頃の学生はなっとらん的なニュアンスで)言われたことがあります。お世話にはなった恩師だったのですが、ちょっとひきました・・・。
日本人論の古典といえばこれか・・・