Livre para Viver

日本語とポルトガル語とその周辺

【つくば】入り方の分からない「さくら交通公園」たどりついたら、夢の国だった

私が住むつくば市にさくら交通公園というのがあります。

次のブログ記事や、ツイッターでの投稿をみて、いつか行ってみたいと思っていました。

sciencecity.tsukuba.ch

思いつきでした。

妻が第2子を妊娠してから、つわりが酷く、ゆっくり遅くまで休めるように、土日の朝は、できるだけチビを散歩に連れて行っています。

妻は、コーヒーの臭いがダメなので、コーヒーを飲むためでもあり、また、つわりに果物が良いようなので、メロンやスイカを買いに行ったりしています。

近くの24時間営業の西友が、朝9時頃に、メロンやカットスイカを値引き販売しているので、ちょうど良いのです。

そのついでに西友の周りや、西友から歩いて行けるつくばセンター(駅周辺の広場?)に連れていって遊ばせているのですが、いつもそれだと芸がないなと思って、ずっと気になっていた「さくら交通公園」に行くことにしたのです。

噂によると・・・

公園の中に、道路が作られていて、信号もあって、交通ルールを勉強できるとのこと。

子どものころ、授業中暇になると、ひたすら架空の街の地図を描いていた(笑)私としては、気になります。ずーっと気になってはいたのですが、機会がなく・・・。

駐車場が分からない

西友からは、少し遠いので、車で向かったのですが、駐車場が分かりません。

他の方のブログなどには、そういった情報がなく、グルグルまわりを回ってしまいましたが、実は、路地のようなところを入って行かなければならないのでした。

こんなところの先に、公園があるとはだれも思いません。おっかなビックリ入って行くと・・・

なんと、学園都市地区とは思えない路地っぷり。おそらく、学園都市の建設にあたって、立ち退きに応じなかった方のお宅なのでしょう。成田空港にも、不自然に曲がりくねった道があります。

さて、そのまま進んで行くと、

 突如として公園への入り口が現れます。学園都市の建設の陰で、立ち退きがあったんだな、と思わぬところで考えさせられました。

計画的で住みやすい街は、古くからここに住んできている人たちの犠牲の下に造られたわけですね・・・。

中に入ると

謎の絵が描かれた切り株が、2つ。。。怖いです。なぜ切り株にこんな絵を描こうと思ったのか。切った人に聞いてみたいところです。

中の様子は、上述のブログをご覧頂ければ分かると思います。

自動車教習所の小さい版をイメージして頂ければいいのと思うのですが、擬似的な街が造られているなんて、子どもの私だったら、大興奮だと思います。

自転車や三輪車も低廉なレンタル料で借りられるようで、もう少し大きくなったら、改めて連れて来ようと思います。

※今は、石を集めることに必死で、この公園でなくても、良さそう(笑)

アクセスなど詳細がのった公式のページが見つけられないのですが、駅からも歩ける距離だと思います。市の紹介サイトも結構ショボイ・・・。

とにかく、子どもが大きくなったら、自転車とかに乗りたがると思います。街中だと車も多いし、かといって、その辺の公園で遊ばせるのも危ないです。

そんなときに便利な公園なのかも。本格的なサイクリングコースとも違って、のんびりマイペースに遊べそう!

www.city.tsukuba.ibaraki.jp

留学生と「日本人」学生がともに学ぶ文章表現クラス

昨年度の後期、主に留学生対象のアカデミックライティングの授業を担当しました。

これは、かなり上級の学生を対象としたもので、卒業論文修士論文、さらには、投稿論文の書き方も含めたライティングの授業でした。人数も10人に満たず、じっくりと進めることができました。

今年度は、学部学生の基礎教養としての(アカデミックライティングを含めた)文章表現や口頭表現の授業を週2コマ、通年で担当しています。

Classroom


人数が多い

そのうちの1コマは、履修登録している人が40人超と、大所帯です。

いままで、最大でも25人のクラスを担当してきた身としては、大きなチャレンジです。

一人一人は見切れないので、グループにして、教科書の課題に取り組み、各グループでまとめたことを、クラスで共有する、という形にしています。

ただ、人数が多いと、課題をやってこない学生が多かったり、教員が見ているときのみグループワークをしていたりと、なかなか統制が難しいところです。

留学生が多い

40人の学生のうち、約半数は日本語が第2言語である留学生です。

いちおう履修条件として日本語能力試験N2「相当」の日本語力があることを課していますが、自分で判断して履修登録をするかどうかを決めてもらっているため、あまり日本語の力が高くない学生も混ざっている気がします。

日本語(運用能)力の高い学生は、日本人学生とグループになっても、積極的にグループワークをしていますし、教科書の課題にも、しっかりと取り組んでいますが、日本語力があまり高くない学生は、課題の意味が理解できていなかったり、意味が分かっても、日本語で表現することが難しく感じているようです。

グループやペアになることで、日本人学生や日本語(運用能)力の高い学生にフォローしてもらうことを目指していますが、なかなか難しいようです。

先週の授業の一コマでの出来事で、ちょっと考えさせられることがありました。

先生、分からないからペアワークしなくてもいいですか?

先週は、「レポートの問題点を指摘することで、アドバイスのしかた・うけかたを学ぶ」というテーマで授業をしていました。

各自、ペアになって、ロールプレイをしていました。出席者の数が奇数だったので、私も一人の学生とペアになってやっていました。そんな最中に・・・

「先生、何をしていいのかわからないからペアワークしなくてもいいですか。一緒にやっている人がやろうとしないし、私もわからないからやりたくないんです」とある留学生が聞いてきました。

私は、その学生がペアになっているのが、留学生でないことを知っていましたから、「ペアの学生にやりかたを教えてもらいつつ、やってみてください。」

と言いました。しかし、

「相手は、私が分からないからやりたがらないんです」というようなことを言ってきました。

グループワークをして、お互い学ぶというのが、授業のひとつの目標です。

40人超だから、私がひとりひとりを見ることはできないですから。

ペアの学生にも聞いてみた

ペアの学生にも事情を聞いてみました。

そうしたら、どうやら、「やり方がわかっていないようだったから説明したが、分かっている様子ではなく、勝手に向こうに行ってしまった」とのこと。

はて、留学生との間で言っていることが矛盾しています。

ただ、恐らく、2人の話を、総合して考えると、

・やりかたが分かっていない留学生に説明をしたが、分かって貰えなかった。留学生も、分かろうとする姿勢があまりなかった。そのため、お互いに練習をできるような状況にならなかった。

ということではないか、と考えます。

学生に学んでほしいこと

今週の授業では、次のようなことを学生にお願いしました。

・留学生であるかいなかにかかわらず、何をやるべきなのかが分からない時には、ペアやグループの人に聞くこと。

・きちんと理解している人は、相手に説明すること。

そのためのグループ(ペア)ワークでもあることを伝えました。

分からないことを聞いたり、分かるように説明することは、アカデミックな場でも、卒業してからの会社や施設などでも必要になることであり、口頭表現の一種です。

レーニングだと思ってやって欲しいなと思います。

 

(蛇足)

この授業では、次の教科書を使っています。

アカデミック・ライティングのみならず、アドバイスの仕方や、議事録の書き方など、大学生や卒業後に必要とされる日本語表現が網羅的に載っていて、非常に役に立つ教科書になっています。いつか改めてご紹介したいと思います。(授業で使う前提になっているため、教科書としてはとても便利です。)

大学生のための日本語表現トレーニング 実践編

大学生のための日本語表現トレーニング 実践編

 

 

パウロ・フレイレの教育観を勉強しようと思った1冊

電車の移動など、少ないすき間時間に、少しずつ読んでいる本。ようやく3分の2ほどを読み終えました。

日本語教育学を学ぶ人のために

日本語教育学を学ぶ人のために

 

 とかく、日本語教育というと教授法に偏りがちですが、この本のいいところは、教授法は、他の本にまかせて、「教育学」というところに重点をおいているところだと思います。

特に「第II部 学習はどのように起こるのか」では、「第1章 認知心理学的視点」、「第2章 ヒューマニスティック・サイコロジーの視点」「第3章 フレイレ的教育学の視点」「第4章 状況的学習論の視点」「第5章 普遍文法の視点」「第6章 第二言語習得研究の歴史」と題した各章で、様々な視点から日本語教育を見たときのことが概説されています。ノウハウではなく、読者それぞれが、自分の「日本語教育観」に新しい洞察を得られる章立てとなっています。

本のタイトルは、『日本語教育学を学ぶ人のために』と、いかにも大学の教科書として使われそうなものになっていますが、日本語教育の現場で教壇に立っている人が、改めて振り返るのに、役立つ本ではないかと思います。

フレイレ的教育観

その中で、「第3章 フレイレ的教育学の視点」が印象に残りました。

パウロフレイレといえば、ブラジルの教育学者で、"Pedagogia do Oprimido(被抑圧者の教育学)"*1で世界中の注目を集めていることは、当然のことながら知っていました。

被抑圧者の教育学―新訳

被抑圧者の教育学―新訳

 

原語の本の電子書籍版も購入し、すでに手元にある状態です。

しかしながら、読む時間も気力もなく、なかなか読めずにいました。

この章では、フレイレの課題提起型教育について以下のように紹介しています。

フレイレは、教師と生徒(あるいは教育者と被教育者)の垂直な上下関係の中で、教師が一方的に知識を注入し、生徒は求められたときにそのまま提示するといった教育を、銀行預金の出し入れに似ていることから「銀行型教育」(Banking Education)と呼び、生徒の客体化と非人間化をすすめるものとして否定した。これに対して、教師と生徒が水平的な関係の中で、課題を共有化し、その課題をめぐる対話を深め、新たな知見を獲得し、現実変革の実践をともにすすめていくという「課題提起型」の教育が本来の教育のありかたであると主張した。(p.94)

教師が抑圧者であり、生徒が被抑圧者であるという関係になっており、その関係から解放され、また、お互いが対等の立場で、課題解決をしていく、という教育のありかたを提唱しているのだと理解しています。

自分の教育のありかた、また、自分が教えている組織の、学生とのありかたについて、考えさせられます。

自分が教室で授業をするときは、どうしても、学生に知識を教えるという立場になりがちです。特に、初級から中級にかけての日本語教育の現場では、知識は、圧倒的に教師に多く、知識を注入し、学生がその知識をもって運用できるようにする、ということに意識が向きます。

そうすると、どうしても教師と学生との間で、抑圧・被抑圧の関係が出来上がってきます。

フレイレ的教育観を知ることで、自分の教育のありかたを見直すきっかけになるのではないかと思っています。

興味の方向が変わってきた

日本語教育の現場に復帰してから、それまで、教師や児童・生徒・学生が使う「ことば」に興味があったのが、教育観だとか、教育のあり方に興味が向くようになってきました。

チームティーチングをする教育機関では、どうしても、その組織の意向に合わせる必要がでてきます。

しかし、教育のありかたとして、疑問を感じないことがないわけではありません。

ただ組織の意向を聞くだけでなく、様々な教育観を知り、学生とともに成長し、自分なりの教育のありかたを模索していく必要があるのかな、と感じています。

いつか、専任職につくことがあったら、当然考えて行かなければいけないことだと思います。それまでの準備期間として、非常勤講師として、様々な大学にお邪魔している間に考えていきたいと思います。

*1:Freire, P. (1974) Pedagogia do Oprimido, Rio de Janeiro: Paz e Terra [フレイレ, P (1979) 『被抑圧者の教育学』, 小沢有作他訳, 亜紀書房]