もしもブラジルに行かなかったら・・・(1)ポルトガル語なんか話さなかった
※博士論文の予備論文(本論文の前の審査の論文)の提出が月曜日に迫っているのに重い腰があがりません。。。
先日、レアルプランが始まったというエントリーを書きました。
100円のジュースが3000円に!驚異のインフレ終了から20年 - Livre para Viver
1994年にレアルプランが始まり驚異のインフレが終わったという話しです。
20年前に初めてブラジルに行ったことが思い出されました。
ブラジルに行かなかったら、こんなことも、あんなことも、そんなこともしていないだろうなぁと考えると感慨深いものがあります。
※奧の建物が我が家のマンション。21階に住んでいました。田舎の一軒家から駅徒歩10分の21階のマンション。カルチャーショックです。
おもちゃにつられて・・・
ブラジルに行くことになったきっかけは、父の転勤。
それまで、タダの田舎の小学生だった私は、「ブラジル」と聞いて、サッカーとジャングルの国か・・・としか思い浮かびません。
地元は、一応は、千葉県とはいえ、遠いと不評の成田からさらにバスで20分。空港ができなければ村のままだったと思われる富里市です。*1
スーパーで見かけるスイカやニンジンで、この地名、見覚えありませんか?
町の名物は、年に1回行われるスイカマラソン(正式にはスイカロードレース、給スイカ所があります。)、ニンジンおよびウマですw
※コイン精米所は都会より多いと思う。
そんな田舎っこ。春は筍を掘り地主さんに怒鳴られ、梅雨どきにはカエルを捕まえ、夏はカブトムシ、冬は霜柱つぶし(懐かしい!)をして過ごす毎日。学校は楽しくありませんでしたが、それなりに田舎の生活を楽しんでおりました。
だから、「なんでブラジルに行かなきゃいけないのか?日本を離れるのはいや!」と思っていました。
ただ父としては、家族で生きたかったらしく・・・。
父はレゴの電車のおもちゃをちらつかせてきました。
当時、目に入れても痛くないほどにレゴが大好きでしたが、1万円以上するこの電車のレゴは、クリスマスにも誕生日にもゲットするのは困難でした。。。
そんな1万円以上するレゴブロックのおもちゃと日本にとどまることを天秤にかけたら、レゴを選ぶしかありません。
でも、そんなおもちゃに吊られてブラジルに行ったわけですが、今ではもの凄く父に感謝しています。ブラジルに行かなかったらやらなかっただろうなぁと思うことを書いていこうと思います。
ポルトガル語なんか話さなかった
一般にいうところの、私は、帰国子女です。キリッ!
なんですかねー、帰国子女っていうと「カッコいい」「英語がしゃべれる」ってなるわけです。
で、塾の生徒とかに「中学校どこだったんですか?」って聞かれるわけです。
「◎◎中だよ〜、ここに住んでたら」「えっ?私立だったんですか?」
となるのがまぁ普通ですね。そして、地元は私立中に行くのは珍しい土地柄。
驚くのもさもありなん。
「いやいや、実は日本にいなかったんだよ。ブラジル。」と伝えることになります。
必ず答えとして帰ってくるのが「えっ、帰国子女なんだ、カッコいい。じゃあ英語ペラペラなんですかー!」となるわけ。です。
で必ず「英語じゃなくてポルトガル語だよー!」って答える羽目に・・・。
ポルトガル語。絶対にブラジルに行かなかったら触れなかったと思います。
地元の町にブラジル人はいました(工場と空港関係の仕事があるからね。)。実家の隣のアパートにも住んでいました。でも、ブラジルに行かなかったら、彼らがしゃべっているのがポルトガル語だとは思わなかっただろうし、興味も持たなかったと思います。
でも、大学でポルトガル語専攻に入り、ブラジルの大学に留学し、大学院の傍らポルトガル語の翻訳をしたり、大学で教えたり、企業研修をやったり、といったことにはならなかったと思います。(収入は、フツーの会社に入った方が大分良いはずですが・・・。)
でも、こういったポルトガル語のお仕事をすることになったのは、ブラジルに行ったからだと思います。そして、ブラジルに行ったからこそ、言語に興味を持てたんだと思います。(そもそも外国語学部に入っていなかったら、言語学や談話分析の授業は受けなかったと思う。)
ブラジルに行かなかったら、今の自分はいなかったと思います。
続きます・・・。
ブラジルにいたときに大好きだったアーチスト。O Rappa。
このアルバムは最高傑作だと思っています。いまだにブラジルのラジオでかかるし。